りんごごりららっきょう

思っていること、昔の思い出

父が亡くなりました⑦

11月4日に手術をしないという選択をして

父は11月11日に亡くなりました。

 

4日の夜遅くになったが

仕事の調整を付けて弟が帰省しました。

私の一人息子に父と会わせたいと思い

短い時間でしたが2日ほど帰省してもらいました。

 

面会をお願いしましたが、県外者であり、孫という関係性なので会うことはできませんでした。

 

きっと無理だろうとは思いましたが、調整をつけてくださる施設なのでお願いしてみたけどダメでした。

私たちの

面会時間も30分以下とかなり短かったですが

ああいったコロナの状況下でよく許してくださったと今も思います。

実家から病院まで高速で1時間程度でしたが、

毎日通うのも疲れます。

かえって食べるものと言えば料理する気にもなれず、

お惣菜や卵焼きなどを食べていました。

元気で脂肪の貯えもある私でも疲労を感じます。

母はもっとだったと思います。

3人ともあまり余裕がなく

なにかあるとすぐに衝突するような状況でした。

11日に病院から電話があり朝方から徐脈になりつつあります

とのことでした。

父の人工心肺はよく頑張てくれて30くらいに脈拍が落ちるとあわてて動かしてくれる

そんな状況でした。

父の心臓が止まるのを待っている数時間はとてもつらかったです。

 

あの人工心肺の音を聞くと

きっと父の心臓はもう止まっていて、無理やり機械で動かしているんだろうな

父の魂は今どこにいるんだろう。

同時に面会できるのは2人までで。

1人、外で待機です。

母にはずっと付き添ってほしかったのですが、

煙草を吸いに行きたい。

水筒を車に忘れた

など結構外に出ようとするのです。

そばにいるのが耐えられなかったのか、体力的につらかったのかわかりませんが。

 

夕方になり夜勤の看護師が出勤してきました。

 

 

父が救急搬送され入院し、翌日緊急の再手術の前に担当した看護師さんでした。

私たちにその時のエピソードを教えてくれました。

 

夜間、次の日の手術が心配だったのかあまり眠れなかった父は多弁だったようです。

私には若い看護師さんにそんなに話しかけるなんて信じられませんでした。

 

恥ずかしがり屋で人見知り?もあって、若い人にはなかなか自分からは話しかけられる父ではありませんでした。

しらふだと娘の私にもあまり会話せずって人だったので。

そんな父が

体がだるくてしょうがなかった。

風邪だと思って寝てたのにまさかの心筋梗塞だとは思ってなくてびっくりしたこと

はやく病気を治して、家に帰らなければいけないこと。

妻が今年の1月にがんがみつかり治らないといわれたこと。

だから、自分は妻を支えなければいけないこと

去年1年脳梗塞で入院していたが、その間、妻に負担をかなりかけてしまってそのせいで癌になってしまったのではないかと思っていること

去年の入院でも感じたが看護師の仕事はすごい仕事だと思っていること、

子供が2人ともそのような仕事に就いてよくやっているなと思っていること

 

など会話をしていたそうです。

その話を聞いて私も母も泣いてしまいました。

母を看取るのが嫌で、残される自分の生活が嫌で

逝き急いだのではないか

そう思ってしまっていたけど

治そうと思っていたこと。

帰って母の面倒を見なければと自分を奮い立たせていたことがわかりました。

この看護師さんと話す機会を作ってくれたことに

なんだか感謝しました。

父がこの看護師さんにあわせてくれるまで生きるのを頑張ってくれたような気がしました。