りんごごりららっきょう

思っていること、昔の思い出

東日本大震災から8年

今日

3月11日はたくさんの人にとって忘れられない一日だったと思います。

8年前のあの日。

私は関東在住でした。

私は子供と九州に里帰りをして

11日の13時過ぎの便で東京に帰ってきました。

飛行機の中で熟睡してしまっていた息子が羽田から自宅まで元気いっぱいなのは想像できたので、少し空港で遊んで1時間後の高速バスに乗って帰ることに決めました。

 

しばらくするとあの揺れ。

羽田空港もグラグラと大きく揺れました。

幼児だった息子は、その時戦隊モノに夢中。

怪獣が現れたのだと思い、グラグラ音がするガラスをキッと睨み、小さな傘で、戦う体制になっていました。

彼は私を守ろうとヒーローになってくれました。

 

情報が錯綜していたんだと思います。羽田空港の放送で

宮崎県沖で地震

とありました。

東京がこんなに揺れたんだから九州のさっきまで会っていた一緒に時間を過ごしていた両親は、生きていないかもしれない。

とっさにそう思ったのを覚えています。

すぐに次からの放送で宮城県沖とのこと。

周りにいた受験に来ていた東北出身と思われる若い女の子が親と連絡が取れず焦っている風景を見て

とてもひどい考えですが、宮崎沖での地震ではなく良かったと思ってしまった自分がいました。

その子はもう1人のこと何度も携帯で電話をかけ親の無事を確認しており確認できた時に泣いていたのを覚えています。

 

羽田空港に到着する便はあるけど、モノレールや高速道路が通行止めになり

復旧の目処が立たないとのことで家に帰る手段がなくなり途方にくれました。

空港にはたくさんの行き場を無くした人が集まりました。

 

シャッターを締める売店がちらほら出てきて慌てて、

パンや飲み物などを買ったのを覚えています。

 

東北の情報がそのあとほとんどわからず。

椅子など休む場所はもう取られてしまいどうしようかと考えていると毛布の配布が始まりました。

子供と地べたに座り眠るように言うのですが

興奮して2人とも眠れませんでした。

夜23時ごろ、地べたに座っている私に声をかけてくれた人がいました。

授乳室があるから

あそこで休みなさいと。

授乳室はプライバシーが確保され

子供はやっと眠れました。

 

その頃、夫と携帯で連絡が取れました。

道が渋滞してるだろうから時間をかけてゆっくり帰ってくるから自宅に居るように伝えたのに

自家用車で迎えに来るといい

朝の5時ごろ迎えにきてくれました。

羽田空港で夫の車を見つけた時は

迎えに来なくていいと言っているにもかかわらず安心し夫がヒーローのように見えました。

 

自宅についてテレビでの映像に釘付けになりました。

東北が大変なことになっている。

ハリウッド映画のような、光景にただただ驚きました。

 

私は、自分がとんでもないことに巻き込まれ大変だったと思っていましたが、

羽田空港は、暖房もつき毛布も配布されトイレもありとても恵まれた環境でした。

 

あの日、被災され寒い思いをして過ごされた方がたくさんいたことを翌日になりはじめて知りました。

 

どういうご縁か、今東北に住み

たくさんの方からその時の状況を聞くとその時の大変さを改めて感じます。

電気のある生活、水道のある生活、ガスのある生活、スーパーに、物がある日常は、当たり前ではないこと。

当たり前の素晴らしさを感じること。

当たり前は突然なくなってしまうことがあること。

 

たくさんのことを教訓に考える大切な日になっています。

風化をしないようこの日はすごしていきたいです。