りんごごりららっきょう

思っていること、昔の思い出

パチンコ

1円パチンコに行ってきた。

1000円、遊んできた。

二回大当たりが出たけど連続にはならず。

それでも1時間もたなかった。

散歩していて、悩んだ挙句、ふらっと入ってみた。

独身時代、夜勤明けによく行っていた。

夜勤明けに行くとすごくでていた。

60000円くらい稼いでた。

眠いぼーっとした頭でただ、ひたすら打っていると帰りたくなっていた。

出てるからやるけど。早くフィーバー終わってくれ!

と思っていた。

私のギャンブル運はもうあの時に終わったに違いない。

 

 

パチンコは嫌な思い出がある。

 

私の母はきっとギャンブル依存症だったのだと思う。

父が単身赴任だったから

父がいない時、結構、夜パチンコに行っていた。

パチンコに行くより家にいて欲しかった。

家にいて欲しいと伝えるとすごく不機嫌になることがあった。

留守番もできないのかと。

中学生で、G-SHOCKが流行っていた。

パチンコで勝つとG-SHOCKの、時計に変えて持って帰ってくれた。

弟はめっちゃ喜んで。

また、パチンコで勝ってきて!

と快く送り出していたのに、私はG-SHOCKは貰うのに、家にはいて欲しかった。

高校卒業すると、私を連れてパチンコに連れていってくれた。

どんどん消えるお金に怯えると

5000円はとりあえず入れないと出ないよ!

といわれた。

お金も母から出してもらっていた。

 

私が就職してしばらくして母のパチンコと借金が父にバレた。

父の仕事の都合で東京で会う機会があり、二人で築地で飲んだ。

父が涙を流して、離婚しようか悩んでいると吐露した。

お酒も手伝って、二人で腹一杯泣いた。

父は、単身赴任でお金を入れて、貯蓄がなかったことを許せないと言いながら、

当時のスマトラ沖の地震による津波を例に挙げて

津波にあったと思って水に流そうと思うという結論に達した。

その時の父親の涙から私はギャンブルには夢中にならないと決めた。

ギャンブル依存症なんて言葉はなかったから

だいぶ母を悲しく思ったし憎く思った時期があった。

依存症という病気であることや

働きながらいろんな人を見ていくと

母親も父が単身赴任で姑と、同居で、

子供が手がかからなくなり寂しかったんだろうと大分時間が経ってから理解することができた。

母が、パチンコが楽しいわけじゃない、打っている時間に無心になれる感じが好きなのだと。

いろんな人間がいて上も下もないと思えるんだと言っていた。

そして、その後から母親がパチンコに行ってる形跡はない。

あんなにやめられなかったのに、今も隠れてしてるかもしれないけど。

辞めたと私は思っている。多分、お金もないんだと思う。

 

今回、しばらくぶりに行ってみたけど、

夢中にならなかった。

勿体無いと思えた。

少し、ホッとした。

しばらく?もう行かないだろう。

優先順位を守れるならたまにはギャンブルもいいと思う。

でも、パチンコ屋さんに開店前から並んでいる人を見ると、少し切なくなる。