りんごごりららっきょう

思っていること、昔の思い出

婆ちゃんの葬式での話

お盆に実家の墓参りに行って帰ってきてから家族とばあちゃんのことを急に振り返る時間がありました。

話をしながら、ばあちゃん、帰ってきたからかなー?

って言いながら。

 

婆ちゃんの葬式での話になりました。

私の父には兄弟がたくさんいるのですが、

あまりしっかりしていない兄弟がおり、

婆ちゃんの蓄えを根こそぎ定期的に回収する人でした。

同居している父や母からしたらそれこそ面白かはないです。

ばあちゃんの蓄えがないとわかると父からも借金をしていました。

もう何十年も実家には帰ってきていませんでした。

ばあちゃんからしたら同居して毎日顔を合わせ喧嘩してしまう父より、

たまに電話で優しい言葉をかけて、できの悪い兄弟は可愛かったのだと思います。

 

ばあちゃんが認知症になって介護が必要になってからも一度も実家には帰りませんでした。

私の息子が2歳くらいのときに、

その兄弟が関西に住んでいることを掴み、婆ちゃんの最期の旅行だと連れて行きました。

私も現地集合で落ち合いました。

 

ばあちゃんの認知症はすごく進んでいたので、その兄弟にきづきませんでした。

 

これは、息子じゃない。

こんな禿げた息子は知らん。

こんなじいさんは違う。

 

紹介するたびに初めて聞いたかのように反応して何度もばあちゃんは否定しました。

もう何十年も会いに来ない息子の面影がなく一致できなかったのだと思います。

 

しかし、その兄弟は、否定されても優しい言葉をかけ続け、私には白々しく聞こえたのを今も覚えています。

 

認知症が進むと息子が何人いるのかもわからなくなることがありましたが、うちの父だけは忘れずにいてくれて、父と母の介護の力を感じました。

全てを忘れる前に亡くなったのは、わたしにとってはホッとした部分がありました。

 

婆ちゃんの葬式に来た兄弟はどんな態度で来るのだろう。

父に頭を下げるのだろうか?

そう期待していたのに。

そんなことはありませんでした。

へらへらと借りたお金も返していないのに景気の良い話をして、私はすごく腹が立ちました。

最期まで施設に入れず家で看取った両親に労いの言葉、謝罪の言葉をかけて欲しかったのにそんな言葉はありませんでした。

今考えると、居場所がなく、なにか、痛いところを突かれたら逃げ出すこともできない状況だったので多弁にならざるを得なかったのだと思います。多弁でいることで周りの方からの攻撃を防いでいたのだと思えます。

 

でも、その時の立ち振る舞いは私はとても許せずにいました。

 

近所の方がお手伝いに来てくれていたのですが、

ある方が私にそっと言いました。

 

ばあちゃんが、お父さんに怒るなよ。

最期やかい、我慢しろって

言ってる。

ばあちゃん心配してるみたいよ。

私、そういうのが見えるのよ。

だから、お父さんに伝えてちょうだい。

 

半信半疑ながらそのことを伝えると、

 

父は

 

ケッ

 

と吐き捨てるように言いましたが、式の最中に怒ることはなかったです。

葬式後

1週間近く血圧が上がりに上がってなかなか落ち着かなかったですが。

 

その話を、振り返りながらすると

父はそんな忠告を受けたことはすっかり忘れていましたが。

 

その人が、そういうのが見えるのか見えないのかはわかりませんが、

あの時のあの忠告があったから

最期だから

きちんと見送ろうと冷静になれた部分はきっとあったのだとおもいます。

そして、

ばあちゃんは、自分の葬式まで子供の心配してたんじゃないかとおもいました。

 

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